沖縄以外にこれほど大きな「グスク」が、なぜ?…謎多い与論城跡、3万平方メートルは王族クラスに匹敵

 2024/05/05 21:32
与論城跡の主要部にある石垣。崖の上に築かれている=与論町立長
与論城跡の主要部にある石垣。崖の上に築かれている=与論町立長
 鹿児島県与論町教育委員会は、琉球の「グスク」と呼ばれる中世山城の与論城跡で2019~23年度に実施した発掘調査の報告書をまとめた。沖縄本島以外では最大規模で、主に14世紀から15世紀にかけて利用されたことが明らかになった。国の史跡指定を目指す町教委は「国内の城郭様式の分布や、東アジアを含めた琉球、奄美群島の状況を考える上で貴重な成果」としている。

 与論城は島の南部にそそり立つ93メートルの断崖に築かれている。石垣や山腹を平坦にした曲輪(くるわ)などで構成している。島の最高標高(97メートル)とほぼ変わらず、眼下には集落や海岸線、海の向こうには沖縄が見える。町教委の南勇輔さん(31)は「南西諸島を島伝いに往来する船を監視できる絶好の場所」と話す。

■迷路のよう

 研究者を驚かせたのが城の規模だ。町教委によると、推定面積は3万平方メートル超とされ、沖縄本島の王族クラスのグスクに匹敵するという。

 現地を調査した沖縄県立博物館・美術館の山本正昭主任学芸員(49)は「沖縄本島以外では破格の大きさ」と話す。崖上の台地にある主要部にとどまらず、崖の下まで城域として整備している点に着目し、「沖縄本土のグスクではほとんど例がない。巧みで複雑なプランを取り入れている」と指摘する。

 城の入り口は海に近い崖の下にあり、主要部への通路は、途中に立ちはだかる巨石で迷路のように枝分かれしている。要所には高さ2、3メートルの石灰岩の石垣が築かれ、斜面を削ったり、盛り土したりして整地した場所も多い。

 山本さんは「高低差による不便を許容してでも城の範囲を広げ、巨大化している。何らかの脅威に対する備えだったことは縄張りからも明らか」と語る。

■北山伝承と一致?

 島に残る伝承では琉球が北山、中山、南山の3つの王国で覇権を争っていた14、15世紀の三山時代、北山王の三男・王舅(おうしゃん)が築城したとされる。一方、琉球王国が最大勢力を誇った16世紀の尚真王時代に来島した花城真三郎(はなぐすく・まさぶろう)が手がけたとの説もある。当時を記す文献資料はなく、実態は不明な点が多かった。

 発掘調査では、王舅築城説に近い、14世紀から15世紀中ごろの中国製陶磁器やガラス製品などが多く出土。複数回にわたり敷地が造成された痕跡や、建物の存在を示す柱穴、現在は島に生息していないイノシシの骨も見つかった。南さんは「15世紀中期以降は遺物が急激に減少しており、盛んに利用された時期や実態が絞り込めた」と強調する。

■目的は謎残す

 ただ、なぜ与論にこれだけの規模の城が存在したのか、結論には至っていない。町教委によると、城で戦闘があったという文献や伝承はないという。

 沖縄県立博物館元館長の當眞嗣一さん(79)は、沖縄北部との関係性を重視する。「例えば与論に近い伊平屋島には、小さい島なのに驚くほど防御に特化したグスクがある。海で自由に往来できたボーダーレスな地域。グスクは単線では語れない」

 山本さんは三山時代の覇権争いに着目。「北山が奄美群島、九州への交易権益の確保を図ったのでは」とみる。後に琉球を統一する中山に対し、北山は中国との交易で後れをとっていたという。「奄美や九州に活路を求めた北山が、航路を守り中山をけん制するための重要拠点として、強力な施設を造ったのだろう」。徳之島の西側には、中国への輸出品だった硫黄が取れる硫黄鳥島もある。

 南さんは「琉球、奄美だけではなく、東アジアの動きもうかがえる史跡。城周辺の集落との関係性など検証を続けていきたい」と話した。