103歳の証言 ブーゲンビル島・タロキナの飛行場を破壊せよ―。8キロの弾丸2発と飯ごう持ってブインを出発。敵の守りは固く味方を待つ。翌朝現れたのは敵機200機だった〈語り継ぐ戦争〉
2021/07/31 10:54
ブーゲンビルの戦いに従軍した田平操さん=薩摩川内市若松町
南方戦線強化のため、所属していた第6師団のソロモン諸島への転出が決まり、1942(昭和17)年12月21日に上海を出発した。25歳。39年2月に中国に出征して、4年になろうとしていた。ラバウルを経て翌年1月25日にブーゲンビル島(パプアニューギニア)のブインに着いた。
日本軍は米軍と豪州軍を遮断するための作戦の一環として、ブーゲンビル島を占領。ブインには軍の飛行場があった。到着したが、食料がない。畑を開き、芋やカボチャを植える日が続いた。
ブインに近いモライ岬への米軍の上陸を予想していた。ところが敵はブインとジャングルを隔てた島西側のタロキナに入り、飛行場を建設した。翌年、われわれ野砲兵第6連隊にタロキナの山中に陣地を構え、飛行場を破壊する命令が下った。いわゆる第2次タロキナ作戦である。
□ ■ □
1発8キロの弾丸を一人2個ずつと、飯ごうを持ってブインを出発。宿営地に着いたら、まず食料を探すという道のりだった。ジャングルに生えるバショウの根を細かく切って炊いて食べたが、乾いたまきがなく苦労した。
夜に翌日の朝と昼の分まで一緒に炊いた。昼間に煙を出すと、敵に見つかり空爆されるからだ。腹が減って3食分を一度に食べてしまい、翌日は朝昼抜きで歩く兵もいた。
島は雨が多く川もたくさんあった。食べ物はなく、マラリアやチフスなどの病原体がまん延しており、倒れる兵も多かった。彼らの分の弾丸まで3個、4個と運ぶ隊員もいた。
3月10日。夜明けから、敵の飛行場めがけて攻撃を開始した。歩兵13連隊や45連隊なども加わった総攻撃だった。私たちが所属した野砲兵第6連隊の山砲隊は高台に陣取り、各部隊の戦況が入る基地になっていた。戦況はよかったが敵の守りが固く、破壊に至らない。翌日来ることになっていた日本軍の飛行機を待った。
□ ■ □
夜が明ける頃、200機ぐらいの飛行機が飛んできた。だが、それは敵の飛行機だった。爆弾の雨がこれでもかと落ちてきた。ジャングルだった山がはげ山になり、部隊は全滅に近かった。私は奇跡的に助かり、負傷兵を仮包帯所(応急救護所)に送り届ける作業を繰り返した。
負傷兵を届けた帰り。空腹を満たすため、草の根をかじった後、激しい下痢に見舞われた。一歩も動けなくなり、倒れ込んだ。
やってきた救援部隊の中に大分出身の戦友がいた。私が病状を説明したところ、「そこにおれ」と言い残してその場を離れていった。しばらくして戻ってきて「これを飲め」と薬を渡してくれた。
翌日は山を下って敵の飛行場に突撃することになっていた。薬が効いたのか、幸い歩けるようになり、飛行場に向けて出発した。
途中で第45連隊の曹長に会い、戦況を尋ねた。「ここまで来たどん、この先は敵の射撃で進むことができない」という。われわれも前に進むことができず、戦闘を終えた。
■第6師団
旧日本陸軍の師団の一つ。歩兵第13連隊(熊本)、歩兵第23連隊(都城)、歩兵第45連隊(鹿児島)など九州南部の隊で編成された。日中戦争で南京攻略戦などに参戦。太平洋戦争が開戦すると南方戦線へ派遣された。
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