ぽんぽん、と建物が燃える音。空襲で実家の旅館は全焼した。「こんな田舎に爆弾が落ちるようだったら日本は負けるね」。母の口から出たのは思いも寄らない言葉だった〈証言 語り継ぐ戦争〉
2021/04/11 10:30
当時の写真を見ながら語る久保キク子さん=姶良市蒲生
1945(昭和20)年7月27日まで、姶良市下名の山田橋のたもとに実家の旅館があった。その日の空襲で、ほぼ全て焼けた。
当時は16歳。蒲生の女学校を卒業し、旅館の仕事を手伝っていた。父が44年12月に病気で亡くなって以来、母や姉と守ってきた。
昼ごろ、近くにある山田国民学校の子どもたちが帰宅する時間だった。橋が狙われたのだと思う。警報が鳴った時には、もう敵の飛行機が来ていた。「逃げよう」。家族で話していた瞬間だった。橋の向こうの菓子屋に爆弾が落ちた。
田んぼのあぜ道を歩いて帰っていた子どもたちが、機銃掃射を受けたようだった。私は水路の橋の下に身を隠し、子どもたちを呼び寄せた。8歳くらいだろうか、女の子の太ももに弾が貫通していた。「痛いけれど我慢して。お母さんに病院に連れて行ってもらおうね」と必死に慰めた。
視線を上げると、自宅の馬小屋から煙が出ていた。わらぶきだからよく燃える。「もうだめだ」と思った。
馬小屋近くには、2階建ての旅館と食事を作る小屋がある。姉は煙を見て、すぐに旅館の2階に走った。客用の大事な布団を全部道路に投げた。
その後、火は旅館に燃え移った。涙も出ない。ただぼうぜんと見ているだけだった。
旅館がぼんぼん燃えるのを見て母が言った。「こんな田舎に爆弾が落ちるようだったら日本は負けるね」。思いも寄らない言葉だった。
食事を作る小屋にはみそやしょうゆを入れる大きなたるがあった。空襲でたるは焼け落ち、焼け焦げたみそだけが残っていた。その晩は、焦げていない部分をえり分けてみそ汁を作り、麦だけのご飯と一緒に食べた。
空襲後、近くにあった母の実家に家族で引っ越した。一番大変だったのは、食べ物がないこと。姉が守った客用布団が役に立った。お米や衣類に交換することができた。母は米を入れるかます袋を織り、私は森林組合に働きに出て、生計を立てた。
現在は自宅で習字と硬筆の教室を開いている。生徒の1人が山田中学校生で、昨年の文化祭で体験を劇にしてくれた。足が痛くて見学に行けなかったが、後日動画を見せてもらった。当時を思い出し、涙が出た。
戦争で家族を亡くしたら、どんなに悲しいだろか。子どもや孫・ひ孫に囲まれて暮らす今、兵隊に取られた親の気持ちが分かるようになった。絶対に戦争をしてはいけない。そう訴えたい。
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