二等整備兵になり、「瑞鶴」の艤装員を命じられた。海軍の新型空母は全長257メートル。「初めて乗り組むのがこんなフネとは運がいい」。艦内探検を楽しんだ〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2020/09/24 17:00
「身を立てていくには一芸に秀でた職業軍人になるしかないと思った」と当時を振り返る木之下茂道さん
「身を立てていくには一芸に秀でた職業軍人になるしかないと思った」と当時を振り返る木之下茂道さん
■木之下 茂道さん(94)鹿児島市西伊敷5丁目
 1922(大正11)年、藺牟田村(現薩摩川内市)藺牟田で生まれた。当時、村の暮らしは貧しく、旧制小学校から中学校へ進む子どもはごくわずかだった。私も藺牟田尋常高等小学校高等科を中退し、神戸で鹿児島茶を扱う茶商を営んでいたおじのもとへ働きに出た。

 青年学校の夜間部に通いながら、茶を小売店や料理店に配達する仕事をした。

 その傍ら、書店で海軍航空兵を目指す人向けの参考書「講義録」を買い、おじには黙って受験勉強を始めた。「きちんと身を立てていくには、一芸に秀でた職業軍人になるしかない」と考えたからだ。

 飛行機など見たこともなかったが、競争率の高さから、航空兵に将来性を感じていた。

 試験に合格。おじに事後報告すると、「航空兵だったらよかろう」と入隊を許してくれた。隣組の人たちに盛大に送られて、藺牟田に戻った。ここでも、海軍を志願した同級生と2人、日枝神社で壮行会を開いてもらい、39(昭和14)年6月、四等航空兵として広島の呉海兵団に入った。17歳だった。

 軍隊生活にはすぐ適応できたが、山育ちで小川でしか遊んだことがなかったから、海での遠泳や漕(そう)艇は苦手だった。

 飛行機に乗る搭乗員の適性検査では、残念ながら適性を認められなかった。宇佐海軍航空隊(大分)や青島海軍航空隊(中国)に派遣された後の40年9月、整備兵となるために、横須賀海軍航空隊で第60期普通科整備術練習生となった。

 飛行機の機体構造、空気圧と浮力、エンジン出力とプロペラ、ピッチ(翼の角度)の推進力や空気抵抗、エンジンの構造・原理など座学で学んだことを、機体の分解・組み立てを繰り返しながら、実地で体にたたき込む。一つの課程ごとに、筆記と実技の試験をクリアしなければならず、息が抜けなかった。

 41年3月、普通科整備術練習生課程を卒業。整備科の特技章を左袖に付けた二等整備兵となった。

 この年の9月20日、神戸市の川崎造船所艦船工場で完成を控えた航空母艦(空母)「瑞鶴(ずいかく)」の艤装(ぎそう)員を命じられた。

 多数の戦闘機や攻撃機を搭載する空母は、海上を移動する航空基地だ。瑞鶴は同型艦の「翔鶴」とともに、日本海軍で初めての本格的大型空母として建造された。海軍はこの2隻の空母の完成を待って、対米戦の口火を切る真珠湾攻撃に踏み切ったといわれた。

 全長257メートル、総排水量3万トンを超える新型空母はとにかく巨大で、乗船してしばらくは艦内探検を楽しんだ。「初めて乗り組むのがこんな大きなフネとは運がいい」と思った。

 ◇
 航空機同士の戦いが、勝敗を左右した太平洋戦争。海軍航空整備兵として、開戦から終戦まで、し烈な航空戦を下支えした木之下茂道さんの回想を4回にわたり紹介する

※2017年1月9日付掲載

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