村唯一の保健婦。空襲が続く中、防空壕を1人で巡回した。大やけどの人が風が吹いただけで激痛を訴える。「風を止めてください」。その声は今も忘れられない〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2020/08/15 20:00
鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前
鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前
 ■立野 初枝さん(95)霧島市国分福島2丁目

 国分の空襲が激しくなった1945(昭和20)年4月、東国分村役場で唯一の保健婦として働いていた。その1年前に祖母の知人に勧められ、鹿児島市の鹿児島県保健婦養成所に入学。既に助産婦と看護婦の資格は持っていた。半年後に卒業して試験に合格し、12月に役場に入った。

 毎日のように空襲が続く中、1人で防空壕(ごう)を訪ねて回った。当時20歳。誰に言われたわけでもない。疎開した医者の場所が分からず、困っている人はいないか。誰がどこの壕に逃げているのか。情報を集めて役場に伝えた。いつどこで敵機にやられるか分からず、怖くて不安で命懸けだった。

 壕の中では、空襲で大やけどをした人が「痛い痛い」と言って本当にかわいそうだった。風が吹いただけでも激痛が走ったのだろう。「風を止めてください」と言う声は、今も忘れられない。

 家は焼き尽くされ、みんな着の身着のまま。洗濯もお風呂に入ることもできない。お湯を沸かして、たらいで体を洗うのがやっと。頭や着物にシラミが湧き、同じ壕にいる人にうつるため、かゆがる人が多かった。シラミの媒介で、発疹チフスや赤痢もはやった。

 民家を間借りして治療していた医者の元には、弾が太ももを貫通した人や爆風で足が折れた人もいた。やけどをした人の包帯を取ると、ウジが湧いていてピンセットで取ったこともある。患者は多くても薬は手に入らず、消毒薬や包帯、ガーゼも底を突いた。

 終戦の日は、役場の庭に職員全員が並び、ラジオで天皇陛下の声を聞いた。勝つことだけを信じており、首をうなだれて泣く人もいた。進駐軍が来ると「女の子は襲われるから逃げないと危ない」というデマが飛び交い、恐ろしい思いもした。

 戦争が終わっても、衛生環境はひどかった。シラミは増える一方。保健所はまだなく、衛生係があった警察署からの知らせで、青年2人の家を訪ねたことがある。着物の縫い目に大中小のシラミがびっしり。脱がせた着物をお湯に入れると、たらいの底が見えないぐらいシラミが浮き、背筋が凍った。

 各家を回り、赤痢患者がどこにいるかを調べた。地図に書き込むと、川上で赤痢の人の着物を洗い、川下で鍋や野菜を洗う人もいるのが分かった。しかし予防は大変だった。せっけんや薬はない。とにかく手洗いを勧め、梅肉エキスの作り方を教えた。

 ハエや蚊は、シュロの葉を組んでハエたたきを作ったり、干したミカンの皮や草をいぶしたりして駆除した。外で用を足したら、必ず砂をかぶせるように伝えた。

 引き揚げ者が増えると、食べ物はますます足りなくなった。おなかをすかせて野生のグミを食べ、消化不良を起こして死んだ子もいた。お母さんはお乳が出ない。赤ちゃんにはつぶした米やすり粉を与えるしかなかった。

 今のように何の不自由もない時代が来るとは夢にも思わなかった。戦争は二度とごめんだ。幸せな暮らしに感謝し、みんなで助け合って生きてほしい。

 あわせて読みたい記事